13時30分 E棟



 E棟に踏み入り、エレベーターに乗り込むと三階のボタンを押す。上方でちかちかと変動する数字の描かれたランプをなんともなしに眺めていると、すぐエレベーターは静止して、二人をホスピスへ導くべくその大口を開いた。
 暗めの白色で統一され広々とした廊下と、大きなテレビや色とりどりの花で飾られたロビーが見える。この時間の病棟としてはあり得ないほどひと気は少なく、稀に看護師が忙しない様子で駆けていく。この場所特有の、清潔さが空回りしたような重苦しい空気が辺りを静かに蝕んでいた。
 いやにのろのろと廊下を進む。照らす蛍光灯の白さは、瀬灯が覚えていたままの姿だった。
「14号室はこっちの、」
「大丈夫。もう……知ってるから」
「来たことあるのか?」
「……うん。何度も」
「ああ、慣れてるって言ってたな」
「うん」
「そうか」
 息の詰まる思いでたどり着いた、14号室の前。
「やっぱり……」
「ん? なんか言った」
「ううん。案内ありがとう」
「あぁ……な、俺も入っていいかな」
「……どうして?」
「不謹慎かもだけど、俺の部屋、隣だし。隣人ってなんか気になるから……まあ駄目か、こんな理由」
「いいよ。これも、たぶん、何かの縁」
「え?」
「…………顔を見ればわかるよ……」
 そう言って瀬灯が指し示した、扉脇に掲げられた名札は、“秦野瀬灯”となっている。この時点で、瀬灯は自身に起こっている事象がどういったものか確信していた。
 記憶をたどる限り、瀬灯があの高校に行ったのは、数日か、長くても一週間程しかなかった。瀬灯は入学してから一寸の間もない時期、授業中に激しい胸の苦しさを訴えてこの病院に搬送された。早急な精密検査ののちに入院して、既に半年以上が経っていることも知っている。そして、数ヶ月前には告知を受けてE棟に移動し、数日前から体調が優れなかったことも、……はっきり覚えている。
 瀬灯は、躊躇なく扉に手を伸ばし、冷たい冷たい金属の取っ手を掴むと横にスライドさせる。大きく開放的な窓からの日光に目を細め、そっとベッドに歩み寄る。横たわり目を閉じた彼女は、眠っているのか死んでいるのかわからない真っ白な顔をして、浅い呼吸を繰り返していた。
 壁の色より白みがかった病室に親しむように、まだ入り口にいた彼へ振り返る。
「解る? ……この子と私……」
「双子か?」
「ううん。……本人」
「えっ……」
「私の名前……秦野、瀬灯っていうの」
 静寂。
 瀬灯は穏やかに佇み、彼は何を言うこともなく口を開閉させていた。
「そろそろ死ぬから、私。……出てきちゃったのかもしれない……」
 かすかな笑みを交えて、ささやくほどの声で瀬灯は宣う。
 ほとんど着たことのなかった高校の制服を身に纏い、ふと気づけば当たり前のように授業を受け、当たり前のように友人に話しかけられ、当たり前のようにそこにいて誰も違和感を唱えなかった瀬灯。狭く白い病床に伏し、そこで確定された限りなく近い死を待ち続ける瀬灯。何かがおかしい。何かがおかしい事態なのだが、瀬灯はその実を感覚的に理解していた。
 ……これで確かめられた。やっぱり……もう長くないみたいだ。
 だから、最期に、やりたいようにやってみようと思った――。
「ねぇ、あなた」
「……え、あ、あぁ、おう?」
「私は、秦野瀬灯。水の瀬にともしびで、瀬灯。高校一年。しし座のB型。趣味は、特にない。……あなたは?」
「え、あぁ……川原貴弥(かわはらきや)。貴族の貴に、弥は、なんかゆみへんのやつ。いて座のA型。職業は作家……だったよ。だから趣味は書くことか」
「作家?」
「あぁ。売れちゃいないけど」
「そう……どんなの、書いた?」
「なんでも。書いてみたいことならなんでも」
「楽しそうね……」
 瀬灯が言うと、貴弥は光の眩しさとはまた違う要因で俯き、視線を隅の影に落とし込んだ。
「もう楽しめないよ」
「ううん。川原さんはまだ、生きてる。もう少しだけ生きられる」
 瀬灯は病人歴の点では、どうやら貴弥より年上らしい。貴弥のぼやきを即座に柔らかく否定した瀬灯の言の葉は、乾いた岩のようなずっしりとした重みを持って、貴弥の耳によく響いた。
 眩しいのは、やはり大窓から降る光だろうか?
「…………」
「……じゃあ、行くから……もう、会えないかもしれないけど。また来よう、って思うから、またね。川原さん」
 固まった貴弥の隣をすり抜け、瀬灯はたん、とちいさな足音を立てて来た道を逆に歩み出した。光量の減った廊下に、すぐには目が慣れないが、その足を緩めることはなかった。
 貴弥は、小柄な後ろ姿が廊下の角に消えるまで見送り、やがて、おもむろに、胸ポケットに刺さったままだった万年筆を引き抜いた。


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